1992年秋CCS特集第1部:総論

ベンチケミストへの展開が課題に、技術者育成が急務

 1992.10.30−コンピューターケミストリーシステム(CCS)はこの数年で着実に普及し、現在では多くの企業でCCS推進の専門部署が設立されるにいたっている。彼らが現場の研究者をサポートする形でCCSの活用が実際に進展しつつある。CCS担当者を交えて新規の研究プロジェクトを発足させたり、具体的な研究の中でコンピューター解析をCCS推進部門に依頼したりということが、日常的にみられるようになってきた。しかし一方で、「現場の研究者が自らCCSを駆使できるようになれば、もっと効果があがるはず」だとする認識が徐々に高まりつつある。米国でも早くからこのようなことがいわれており、実際に米国のCCSベンダーは昨年あたりから現場の実験研究者(ベンチケミスト)が使用することを狙った新システムを続々と開発、上市してきている。国内でもいかに研究現場へCCSを普及させるかが今後の最大のポイントになりそうだ。

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 現在のCCSはコンピューターケミストリーの専門家のためのシステムである。ただ、操作性が高いので、ある程度誰でも最新の計算化学理論を用いることはできる。しかし、計算結果を正しく判断したり、そこから有用な情報を導いたり、あるいは良い計算結果を出すためのモデル化など肝心な部分については、やはり分子軌道法なり分子動力学法なりの理論的な基礎が必要だ。現に、CCSが普及する半面では、中身の理論を理解せずにブラックボックスと化した計算化学を駆使することの危険性を説く声もある。また、ワークステーションクラスのマシンを使うには、少なからずコンピューターの専門知識が要求される。まだまだ、一般の化学者や研究者が自分で利用できるようにはなっていない。

 裾野の広い米国でも似たような事情があり、日本と同様に実験家はコンピューターに不慣れである。とくに、有機合成化学者へのコンピューター教育は米国でもまだまだ不足していると指摘されている。CCSでは世界でもっとも進んでいる米国デュポン社でも人材育成には苦労しており、120名のスタッフを抱えるデュポン中央研究所の「サイエンティフィックコンピューティングディビジョン」(CCS推進の中枢)でも、コンピューターとサイエンスと両方の高い技能をもつ理想的な人材はわずか10%にすぎないという。全体の55%はどちらかの技能に優れるスタッフである。デュポン社では、博士号をもつ研究者を5年間訓練できてはじめてコンピューターケミストとして一人前になるとしている。あのデュポンにして、人材育成は大きな問題になっているのである。

 もっともこれはCCSの専門家養成の話し。デュポン中研には数100台のワークステーションと2,500台のパソコンが導入されていることから、研究現場にも多くのマシンが配備されているし、CCSの利用人口もかなり多いとみられる。米国の大手CCSベンダーが軒並みベンチケミスト向けの新システムを上市してきていることも、ベンチケミスト自身がCCSを利用する機会が増えていることを示唆している。

 一方、日本の状況はどうだろうか。ここ1−2年でワークステーションの展開もずい分進んできてはいるが、いまだにその導入はCCS推進部門内だけにとどまっている。米国のCCSベンダーには、日本のベンチケミスト向けにシステムを売り込みたいところが少なからずあるが、残念ながら、現在の日本にはCCSを使えるベンチケミストは皆無に近い。いくら使い易くて性能がよくて安くても、利用者がいないのだから、普及は困難だろう。米国では、ベンチケミストが利用するようになればソフトの市場は100倍に膨らむともいわれるが、こうしたCCSのビジネス面だけでなく、CCSという化学の基礎技術を発展させるためにも、ベンチケミストへの普及は今後のカギを握るといえそうだ。

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 CCSの専門家とベンチケミストがシステムを利用するのとでは、自ずと違いがある。専門のコンピューターケミストは、計算理論の内容を十分に理解している必要がある。また、厳密な解を追求していく必要もある。しかし、ベンチケミストにとっては、研究や実験の指針が得られればいいわけで、極端な話し、厳密解はいらないし、理論を理解していなくてもいい。CCSによって、漠然とでも研究をどちらの方向に進めればいいのかがわかれば、それは大きな導入効果になる。不要な実験を減らせることも経済的なメリットになるし、研究開発のスピードアップにもつながる。

 ベンチケミストのCCSに対する第1の障壁はやはりキーボードのようだ。そして第2のさらに高い障壁はシミュレーションであろう。パソコンやワークステーションが普及し、ユーザーインターフェースが洗練されてきたことで、第1の障壁はかなり低くなりつつある。問題は第2障壁である。ベンチケミストは実際のマクロな自然現象を相手にしているので、分子/原子レベルのミクロなシミュレーションはとっつきにくい。しかも、マクロな世界とミクロな世界の間には、“近似”というきわめて大きな渓谷が横たわっている。このギャップを埋める工夫を凝らすとともに、コンピューターケミストには最新の計算化学理論をシステムとして大衆レベルにブレイクダウンする努力が求められる。

 企業においては、ベンチケミストにCCSへの興味を抱かせるような組織的な活動が必要だろう。当面は、CCS専任のスタッフ部門がベンチケミストをサポートするのがベターかもしれないが、依頼心ばかりが大きくなることを警戒すべきだ。それには、スタッフ部門と研究現場とのコミュニケーションを密接に行うと同時に、人材の交流やローテーションも重要になろう。それぞれの企業規模もあるので一概にはいえないが、少なくとも10数名のスタッフを育成していかなければ、なかなか効果があがらないのでないかとも指摘されている。