東京工業大学が学部教育にコンピューターケミストリーを活用

全学でSpartanを約400本導入、高い学習効果

 2007.10.11−国立大学法人東京工業大学は、コンピューターケミストリーシステム(CCS)分野で教育機関向けに実績豊富な分子モデリングソフト「Spartan」(米ウェイブファンクション)を化学教育に活用。大きな成果をあげている。CCSは、イメージのわきにくい量子化学の基本概念を学生たちに頭に入れてもらうためにまさに格好のツールであり、のちのち専門課程に進んだり、企業の研究者として活躍したりするうえでも、CCSを扱えることは基礎として必要不可欠な知識・技能になりつつあるという。全学では約400本のSpartanのライセンスを導入しているが、そのうちの370本は教育専用システムとして活用されている。今回は学部の1年生および2年生を教えている先生方にお話しをうかがった。

                    ◇       ◇       ◇

 東京工業大学は、125年余りの歴史と伝統を背景に、21世紀の科学技術をリードする“世界の理工系総合大学”へと進化を続けている。アジアで最高速のスーパーコンピューター「TSUBAME」を導入していることでも知られ、学部で5,000人、大学院で5,000人の学生が学んでいる。

 大学院理工学研究科の藤本善徳教授(物質科学専攻)のグループは、1年生全員を対象とする理工系基礎科目の中の「化学実験第一」(前学期)、「化学実験第二」(後学期)において、それぞれ「コンピュータによる分子モデリング」および「吸収スペクトルと色」というテーマで Spartanを用いた実習を行っている。

 昨年度までは補助テーマという位置づけだったが、今年度からは正式テーマに格上げされ、Spartanを利用できるパソコンの台数も25台に増やした。Spartan以前はChem3Dを利用していたが、化学のおもしろさを1年生にアピールすることが大きな狙いでもあったため、3年前のシステム更新に合わせて、使いやすさやビジュアル性を重視してSpartanに入れ替えたという。

 「化学結合や分子の成り立ちを理解する上で量子化学は非常に重要だが、数式が中心であるため学生にとってはイメージのわきにくい世界で、悪くするとおもしろくないという感想を持たれかねない。その点、CCSを利用すると、分子軌道の広がりを目で見るなど、量子化学の世界を“実体験”することができる。実際、2年進級時に専門の学科を選ぶ際、1年次の化学実験の好印象が大きなファクターとなり、化学科を志望する学生が増えたと感じている」と藤本教授。

 演習で教えている松下慶寿助教と原典行助教も、「分子モデリングのテーマでは、計算でしかできないことを盛り込んで、学生たちの興味をかき立てたい」と話す。「電子を減らしたり増やしたりしたときに、分子の全電子エネルギーが高くなったり結合が長くなったりすることを計算で確かめることができる。ベンゼン環の上での軌道の広がり、分子の振動、そうしたものがグラフィックやアニメーションで視覚化されることは、学生たちの理解に大いに役立っている」という。

                    ◇       ◇       ◇

 大学院理工学研究科の土井隆行准教授(応用化学専攻)は、工学部の化学工学科と高分子工学科に共通の学生実験の中でSpartanを利用している。2年生で量子化学を本格的に学ぶため、それを助けようというのが狙いだ。4日間ある学生実験の1日を計算機実験に当てており、いちどに16人を教える。

 「シミュレーションで行う内容は、置換基が入ったときの相互作用など簡単なものだが、CCSによる学習効果は大きい。計算で分子の3次元立体構造がわかると、学生の理解は一気に進む」と土井准教授。10年ほど前からChem3Dを学生実験に使ってきていたが、TSUBAME導入に合わせて、今年度からSpartanを採用している。Spartanが基礎から高度な量子化学計算までをカバーできること、教科書として用いている「マクマリーの有機化学」の図版がSpartanで作成されていること、開発者のヒーリー教授(カリフォルニア大学名誉教授)が執筆した演習書が参考になること−などがSpartanを選んだ理由だという。

 土井准教授は、「研究室に入れば、Spartanなどのソフトを本格的な研究に利用することが増える。その意味では、CCSの基礎が身についていないと困る場合もありえる。学部の基礎的な教育の一環として、CCSをさわらせることは非常に重要だと思う」と話す。大学院での教育においても、遷移状態の探索など、量子化学計算ならではのテーマでSpartanを活用している。

                    ◇       ◇       ◇

 実際に授業をのぞいてみると、学生たちの生き生きとした様子が印象的だ。

 藤本教授らのグループによる1年生の分子モデリングの実習では、2人で1台のパソコン(Windows)を使用。最初にプロジェクターを使って講義が行われたあと、学生たちは2人1組となってSpartanで実際に分子モデリングを行い、量子化学計算を実行する。主なテーマは、窒素分子の分子軌道、温室効果ガスの分子振動、芳香族分子のモデリングと分子軌道など。

 量子化学計算を用いて演習問題を解いていくわけだが、Spartanを操作し、パートナーと相談し合いながら課題に取り組む表情が実に楽しそうなのである。分子のグラフィックを見て、思わず感嘆の声が漏れるような場面もうかがえた。「現状では他の実験テーマと同様に2人1組で実施しているが、ほとんどの学生にとって初めての体験でもあり、お互いに助け合いながら積極的に課題に取り組んでいる」(松下慶寿助教)という。

 一方、土井准教授らのグループによる2年生の計算化学実習では1人1台でパソコン(Macintosh)を使用する。実習に参加する学生が2人並んだ真ん中には、教員の操作画面を映し出すモニターが1台置かれている。今年から新しく設けられただけあって、非常に合理的な環境である。実習後も演習室は開放されており、意欲のある学生は好きなだけSpartanを使用することができる。土井准教授も、「この演習室ができて本当に教えやすくなった」と笑顔をみせる。

 「これまでも、分子力場計算を実行し、分子の熱力学的安定性と構造との関係、例えばシクロヘキサンでは椅子形の立体配座の方が舟形よりも安定であることを理解することができた。学生さんにとっては、エネルギー最適化計算によって3次元構造がビジュアル化される方が、分子模型を手で動かすよりもはるかにわかりやすい。さらに進んで量子化学を学んだ学生さんには、分子軌道計算についてSpartanを利用して教えたい」とする。

 演習室のMacintoshは、TSUBAMEをはじめとする計算機センターのコンピューター資源とネットワーク接続されているため、本格的な量子化学計算を行いたい場合は、センターのマシン上でGaussianを稼働させることも可能だ。

                    ◇       ◇       ◇

 CCSを使った教育が広がっている背景には、若い世代にとって、すでにパソコンが身近な存在になっているという事実がある。「以前はパソコンの操作法から教える必要があったが、いまは学生がパソコンに慣れているのですぐに演習に入ることができ、効率が良くなった」と先生方も口をそろえる。

 今後の要望として藤本教授らのグループは、「いま使っているのはSpartanのスチューデントエディションだが、研究用のソフトのサブセットであるため、学生が自分ですぐに使いこなせるかというと、やはり難しいところがある。また、計算で得られた数値をどう読み取るかなどはノウハウの問題であり、学問的な意味は薄い。もっと教育用途に特化したソフトがあってもよいのでは…」と話してくれた。

 一方、土井准教授は、「われわれのところは、CCSで教える環境とソフトが整ったわけで、これをどう使うか、どのように教育していくかが課題になる。ただ、計算化学がブラックボックスになってはいけないので、基礎から応用までをしっかりと身につけさせたい。また、しばらく使わないと忘れることもあるので、今後は定期的・継続的にCCSを利用できるようにカリキュラムを大局的に整備していく必要があるかもしれない」と述べる。また、「有機化学については良い演習書ができたが、物理化学や無機化学の分野でも同様の演習書がほしい」とも。

 いずれにしても、大学の学部教育および大学院における教育課程にCCSを取り入れることは、もはや必然だといえそうだ。