CCS特集:バーチャルリアリティ

分子の世界を仮想現実で再現、研究者の発想を刺激

 1992.05.17−さて、CCS分野で今後注目される技術の一つにバーチャルリアリティ(VR)がある。これは、“仮想現実感”と訳される新しいシステム技術で、コンピューターグラフィックス(CG)で作り出された仮想の世界に実際に人間が入り込むことができる。一般のCGとの大きな違いは、対話ができるということ、つまり仮想世界に対して人間が直接に作用を行い、そのリアクションが実体験として得られるという点である。

 VRでは、オペレーターはまず仮想世界に没入するためのヘルメットをかぶる。このヘルメットには視界を発生させるための液晶ディスプレーが内蔵されており、オペレーターはここに映し出された映像を通して仮想現実を認識する。また、仮想世界に働きかけるために様々なデバイスを用いるが、最も一般的なのが“データグローブ”。これにより、仮想世界の中にあるものを手にとったり、動かしたりすることができる。データグローブは、仮想世界の中で実際に自分の“手”であるときもあれば、何か他のもの、例えば獲物を捕らえる網や空間に絵を描く絵筆かもしれない。いずれにせよ、このデータグローブを通して仮想世界に働きかけが行われるわけだ。

 実際にこのVR技術をCCS分野に応用した研究事例として有名なのが米国ノースカロライナ大学で1971年から行われた“GROPE”プロジェクトである。医薬品分子と受容体とのドッキングスタディに利用された。現在のデータグローブは、いわばジェスチャーデバイスであり、それを通して仮想世界に作用をおよぼすことはできるが、その結果が物理的な力としてフィードバックされることはない。ジェスチャーを伝えるだけだ。

 ところが、このころにはまだ今日のデータグローブが発明されていなかったため、ノースカロライナ大学のシステムでは、放射性物質を遠隔から扱うためのマニピュレーターアームを応用したものをコミュニケーションデバイスとして採用していた。このため、非常に大掛かりなシステムではあったが、力のフィードバック効果が再現されていたようだ。GROPE 3と呼ばれる後期型のシステムの写真が公開されているが、部屋の天井から巨大なマニピュレーターがぶら下がっており、オペレーターは立体視ゴーグルをかけ、前方の大型プロジェクターディスプレー(100インチ近い大きさがあるようだ)に向かって操作を行う。

 オペレーターが医薬品分子を受容体の近くにもっていくと、医薬品分子に働く引力と反発力を感じ取ることができたという。医薬品、受容体両分子表面の結合構造、静電ポテンシャル、ファンデルワールス力、疎水性/親水性、水素結合などの影響が力のフィードバックとして示された。視覚だけでなく、触覚的にも刺激を受けることにより、作業者の能率はかなり高まったとされる。しかし、これがどれほど実用的だったかはよくわからないところも多い。

 米国のCCS関連の研究者の多くは“バーチャルリアリティ”と聞くとまず苦笑する。これがどういう意味なのかは、CCS関連のVR研究がほとんど行われていない日本からみると一種のミステリーであるが、ノースカロライナの例からわかるように米国ではもう20年も前から研究が進められており、どうやらこの技術に関する評価が下されつつあるようだ。

 実際に、化学現象をバーチャルリアリティで表現することは、かなりの問題を含んでいるといえる。具体的にいうと、量子論の世界をスケールアップして仮想現実に組み立てることはできない。例えば、量子化学的世界で主役を演じるのは“電子”だが、この電子は粒子としての性質と波動としての性質の両面をもつ。仮想世界の中で電子を球として表現することは可能だが、それでは電子を正確に理解したことにならない。また、実際にみえないもの、触れないものを相手にしているのだから、力のフィードバックを行うことに何の意味をもたせるかも難しい点であろう。

 とくに、理論家や計算化学者にとっては定量的な数字がすべてであり、彼らにとってはVR世界に再現された虚構は何の意味ももたないわけだ。

 VRの可能性は、原子/電子レベルのミクロスコピックな分野でなく、むしろ古典的な物理法則の支配するマクロスコピックな分野にある。例えば、ノースカロライナで行われたような薬物−受容体のドッキングスタディも好例である。実験化学者にとって直感的な理解の助けになる。たん白質分子の中に自分が入り込んで、リガンド分子がどう結合するのかを実体験できれば、研究者にとって想像性が大きく刺激されることになるだろう。

 また、材料の表面で起こる現象の観察にも利用できる。10万個程度の原子からなる材料表面をつくり、2種類の材料同士の表面を摩擦させ、その界面で起こっていることををVRでみるなどのアプリケーションが考えられる。さらに大きな系では、化学プラントのアプリケーションも可能であろう。例えば、反応炉の中に入って原料の流動状態を調べたり、また地震や火事などの災害時の対処法を訓練したりすることができる。

 現在、バーチャルリアリティの話しをすると多くの人は苦笑すると書いたが、この技術を否定する人はいない。将来は、化学分野でも様々な応用が試みられるだろう。

 すでにVRシステムの商用機も登場しつつあり、今後研究が盛んになっていくと思われる。今回の特集で写真に掲げたのは英国ディビジョン社の「PROVISION」である。松下電器産業が総代理店を務めているが、このほかにもいくつかのシステムが海外から入ってきている。写真からもわかるようにこのPROVISIONは実際にCCS分野で使われたことがあるようだが、残念ながら詳細は公表されていない。