1998年春CCS特集:第2部 総論
国家プロジェクトいよいよスタート、新しい発想と技術で新たなシステム開発へ
1998.03.20−コンピューターケミストリーシステム(CCS)の歴史は、学術研究が始まって約30年、市販のソフトウエア製品が登場してから20年に達しようとしており、計算可能な適用範囲も初期の有機低分子からたん白質、ポリマー、結晶、固体、分子集合体へと広がってきている。しかし、一方で現在のCCS技術の限界もはっきりとしてきた。最もノウハウ蓄積が進んでいる医薬品分野では、遺伝子の配列解析やたん白質の構造解明が進展するにともなって、バイオインフォマティックス技術を新薬開発の重要な基礎情報として用いたり、まったく新しいユニークなリード化合物をみつけ出すために可能性を持つ構造のバリエーションを大量に発生させ、超高速スクリーニングで候補物質を絞り込もうとするコンビナトリアルケミストリー/ハイスループットスクリーニング技術を導入したりするなど、旧来のCCS技術の枠を越えた新しいアプローチが登場してきている。その意味では、CCSによる高分子材料設計も1つの曲がり角を迎えているといえる。ポリマー設計CCSは1990年代初頭に応用が進んだものの際立った成果を産み出すには至らず、最近ではやや下火になった印象すらある。ただ見方を変えれば、旧来のCCS技術の限界が認識されているいま、新しい発想と技術で新たなシステム開発に乗り出す機が熟している時だともいえよう。折しも、新しい大学連携型産業科学技術開発制度のもとで、国家プロジェクト「高機能材料設計プラットホームの開発」がいよいよ4月からスタートする。
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世界に通用する国産コンピューターケミストリーシステム(CCS)の開発を目指す初の国家プロジェクトが、いよいよ1998年度からスタートする。これは、大学連携型産業科学技術研究開発制度による「高機能材料設計プラットホームの開発」で、4年間のプロジェクトとなる。先立って1996年度および1997年度に実施された先導研究「計算機材料設計」を引き継ぐ形で進められる。
日本はCCSの実用化で米国などから5−10年の後れを取っているといわれているが、国内の研究者の間には「基礎になる理論面の研究では外国に負けておらず、プログラムの制作やソフトウエアとしての流通面が課題となっている」という認識があり、国内の最先端の理論を結集して、世界をリードするシステムとして完成させたいという思いが、長年の悲願ともなっていた。
1996年度からの先導研究は、新化学発展協会に委託される形で進んだが、肝心の1998年度産技制度の大プロへの提案は、最終選考の3つの候補の中には残ったものの惜しくも落選。しかし、やや小規模な大学連携型プロジェクトが新しく創設されることになり、そちらの機会をとらえることができたというのが今回の経緯である。
先導研究の中では、高分子、表面反応解析、光電子材料が重点テーマに位置づけられ、シミュレーション演算を超高速で実行する専用計算機の設計なども計画された。ところが、大学連携産技制度では予算枠が大プロ提案の10分の1程度であるため、まずは高分子材料メソスコピック領域を中心とする部分を先行させるという形になった。
今回のプロジェクトの中心になるのは名古屋大学の土井正男教授で、ここに産業界の8−9社から15名の研究者が集まり、集中研究方式にて実際の開発が行われる。総予算は4年間で20億円弱となる模様。ソフトの開発としては決して少ない額ではない。
リーダーの土井教授は、高分子研究の大家であるS・F・エドワード教授(英ケンブリッジ大学)との共同研究による「土井−エドワードの理論」(高分子の粘弾性の理論)でよく知られており、たいへんなコンピューター好きでもある。修士課程の時に、のちにノーベル物理学賞を授賞するド・ジェンヌ教授の論文をコンピューターシミュレーションで追試したのが最初の仕事。1980年代初めには当時のパソコン(FM8、FM11)を使って論文執筆のための英文ワープロソフトをBASICで自作した経験があるというから、ちょっとしたマニアなみだ。
さて、今回のプロジェクトで注目されるのは新概念の“シームレスズーミング”である。これは、ナノメートルスケールのミクロ世界からセンチメートルスケールのマクロ世界までを自由に行き来することを可能にするシミュレーションツール。われわれが実際に目にする材料・物質が、さまざまなスケールの階層構造を持つと仮定し、各スケールでその領域に最適な理論や計算を用いて、現象の予測・解析・設計を行おうというもの。各スケールのシミュレーターの担当領域をオーバーラップさせれば、階層間をシームレスにつなぐシステム体系が出来上がるという発想である。
メソ領域のシミュレーション理論としては、粗視化分子動力学、動的平均場法、ストーケジアン動力学、ユーラーラグランジュ法などが検討されている。粗視化分子動力学は、メソ領域の分子運動をシミュレーションするもので、高分子を“ひも”のように考えて粗くモデル化する。高分子の絡み合いやゲル化などを扱うことができる。
動的平均場法は、メソ領域の構造形成を扱う理論で、分子レベルではなく、セグメント分布の時間発展を拡散方程式で解くことにより、高分子鎖の複合化による自己組織化を予測できる。ポリマーアロイの自己組織構造の形成過程や界面吸着ダイナミックス、グラフト反応ダイナミックスにも応用可能。
プロジェクトでは、これらの理論をプログラム化し、約1年半をかけてシームレスズーミングシステムのプロトタイプをつくりあげ、そのあとに各企業での検証テストに入る予定。ポリエチレンなどを例に、実際のアプリケーションに適用する計画である。
今回のプロジェクトの目的は、そのテーマにもあるようにあくまでも「プラットホームの開発」であり、本当に役に立つCCSに育てるためには、このプラットホーム上で利用できる具体的なアプリケーションや新しい機能モジュールを継続的に追加していかなければならない。また、ソフトウエアを市場に流通・供給しサポートする企業あるいは機関が必要である。
過去のいろいろなプロジェクトを振り返ると、こうした事後の体制が弱いものが多かったように思われる。開発成果が結局は広く使われなかったという例も散見される。今回は実用的なCCS開発を目指しているわけだから、プロジェクト後のフォローも見据えた活動が行われるよう期待したい。