2011冬CCS特集第2部:総論・技術動向
電子ノート導入が活発化、「京」完成で勢いづくHPC
2011.12.07−コンピューターケミストリーシステム(CCS)の用途は、大きく医薬分野(生命科学)と化学・材料分野(材料科学)に分かれる。とくにここ数年、医薬分野で活発化しているのが電子実験ノートブック(ELN)の導入。先行していた欧米に続き、国内市場もいよいよ本格化しつつある。欧米の先行事例を踏まえ、国内では実験ノートの完全電子化を目指す企業が多いことが注目されるところ。また、生命科学系と材料科学系に共通の傾向として、スーパーコンピューターに代表されるHPC(ハイパフォーマンスコンピューティング)による大規模超高速計算に注目が集まっている。とりわけ、理化学研究所の「京」が世界で初めて10ペタFLOPS(毎秒1京回=1兆の1万倍の浮動小数点演算)の性能を達成し、世界ナンバーワンに輝いたことで、さらに勢いを増しているのが現状だ。ELNとHPCは、技術的にはまったく異なる分野の存在だが、どちらもCCSが実用へ向けてさらなる高度化を遂げていることの象徴となっているともいえる。
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◆◆◆ELN:知財戦略・法令順守を原動力に、法規制化合物判定と連動◆◆◆
実験ノートは、メディシナルケミストが合成実験を行う際に記録するノートで、研究の課題、仮説、実験データ(目的、計画、手順、使用する装置・材料・試料、実験結果)、そして考察やアイデアなどを逐次的に記入していく。日付を必ず記し、自ら署名するほか、同僚や上司などにも署名・認証をしてもらう。とくに製薬業界では、新薬に関する知的財産の権利を明らかにする証拠となるため、実験ノートの存在が重要視されてきた。伝統的に先発明主義を採用してきた米国では、とりわけその傾向が強い。
電子実験ノートブック(ELN)は、紙の実験ノートを電子化したもの。記入される項目は紙のノートと同じだが、化学構造式や反応式の入力が簡便に行えるほか、合成反応の収率などの自動計算が可能であり、ELN導入後はノート作成の負担が軽減されたと答えるユーザーが多いという。
また、電子化されることで過去の実験データを検索できるようになることが、大きな効果につながっている。紙の実験ノートは、一旦保管されると参照するのが困難だが、ELNになると過去のものを毎日参照するという利用者も多くなる。その結果、情報共有が進み、異なるプロジェクト間や世代間でコミュニケーションが活発化したという報告もある。また、過去に行ったものと重複したムダな実験が3割近くあったことがわかり、経費削減に多大な貢献をしたという例もある。
このように、研究現場で実際に役立つこともELN導入の理由になるが、ここ数年、国内でELN導入を推進している原動力は、むしろ知財戦略や法令順守の側面である。ELNが特許戦略上で重要であることはすでに若干触れたが、近年ではますます知的財産を重視した経営に拍車がかかっており、ELNはいまや経営的に必要な存在ともなっている。
先発明主義の米国では、重要な発明や発見がいつ誰によって完成されたかを証明するための証拠として実験ノートが発達し、それがELNの先行導入につながっていった。しかし、日本や欧州は先願主義である。ELNを利用して研究開発のスピードを上げ、短期間でスムーズに特許出願へつなげるインフラにしようという考え方が高まりをみせている。米国特許も先願主義に変わるため、知財戦略の観点からもELNの活用は今後ますます前進するといえる。
このため、ELNの完全電子化の動きも活発になってきた。これまでのELNはハイブリッド方式と呼ばれる導入形態が主流で、ELNを印刷し、紙のノートに貼り付けて署名捺印のうえで保管するというやり方だった。ELNが訴訟時に証拠として有効かどうかという心配からだったが、現在ではそうした不安は杞憂となり、欧米では完全電子化の事例がかなり増えてきたとされている。やはり、1日でも早く特許出願するためには、完全に電子化されたムダのない研究基盤を形成することが有利であろう。
国内でも昨年、武田薬品工業が完全電子化を達成した初めての事例となり、広く注目を集めた。その後の導入例も、将来の完全電子化をにらんだプロジェクトが大半を占めている。このままで行けば、完全電子化が標準となる日は近いだろう。
知財戦略を重視するならば、ELNは製薬企業だけの市場にとどまらず、化学・材料系の市場でも今後は期待が大きくなる。現在、欧米の製薬業を対象にしたELN市場は成熟化してきており、ベンダーも非製薬分野に力を入れはじめているのが実態。事実、携帯電話メーカーがELNを導入したという話もある。
国内でELN導入を活発化させているもう一つの原動力はコンプライアンスの問題だ。とくに、麻薬のような法規制化合物を研究の段階でも扱うことがないように厳密にチェックしようという考え方で、最近のELN導入事例のほとんどでこの機能が組み込まれている。ELNと法規制化合物チェック機能が連携することにより、実験計画を入力した時点で、合成ルートのどこかに法規制化合物が入り込んでいないかを判定できる。うっかりミスなども完全に避けられるので、法令違反のリスクを最小にすることが可能。
法規制化合物チェックシステムは、国内のパトコアとCTCラボラトリーシステムズが製品化しているが、海外のELNベンダーもこの機能が国内市場で必要なことがわかっているため、標準オプションの扱いでこれらの国産ソフトと連携を取るところも出てきている。国内の製薬企業も、研究がグローバル化しているところが増えているため、今後は海外の法規制をチェックしたいといった要望が出てくると考えられている。
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◆◆◆HPC:ナノ材料設計に“現実味”、GPGPU活用が注目◆◆◆
生命科学と材料科学の両分野でこのところ注目されているのが、スーパーコンピューターなどに代表されるHPC環境を利用した高速大規模計算である。
分子シミュレーションは、かつては量子力学的手法で十数個、古典力学的手法でも100個程度の原子からなる分子しか対象にできなかったが、計算理論の発達とハードウエア技術の進歩により、いまや量子力学でも数百から数千原子、古典力学とのハイブリッド手法なら数万オーダーの大規模な系を計算できる時代になりつつある。
さらに、東京工業大学の「TSUBAME」や理化学研究所の「京」といった世界でも一線級のスパコンが国内で相次ぎ開発されたことも、高速計算へのニーズを増進させているといえるだろう。とくに「京」は今年の11月に発表されたトップ500リストで連続の世界第1位を達成し、実行性能で初めて10ペタFLOPSの壁を突破した。今年の8月末にハードの据え付けは完了しており、今後システムソフトウエアの調整を経て、来年6月に完成する。すでに、「グランドチャレンジアプリケーション開発」などの共同プロジェクトの参加機関には一部開放されているが、来年11月に正式に共用開始となる。
文部科学省では、「先端研究施設共用促進事業」、「先端研究施設共用イノベーション創出事業」などのかたちで大学や独立行政法人などが持つスパコンを民間にも開放しており、CCS関連のテーマでも多くの利用実績がある。
例えば、たん白質に対する薬物分子の結合性を評価する際にも、高い精度で解析しようとすれば1日がかりの計算になることも少なくない。スパコンを用いてさらに大規模な系を短時間に解析できれば、さまざまな条件を考察できるため、いわゆる“インシリコ創薬”はそれだけ真の実用へと近づくことになる。
また、材料開発分野でもHPCの恩恵は大きい。もともと材料としての特性は、アボガドロ数に相当するような分子の超大規模集合体としての性質から生じていると考えられる。原子や分子レベルの計算化学シミュレーションで扱う世界とはるかに大きな隔たりがあるため、現実に観察・測定される物性に直接結びつかないことが材料系CCSの最大の泣き所だった。
ところが、電子材料に代表されるような先端分野では、材料特性がナノスケールで発現する世界となりつつあり、一方のCCSの計算手法も発達してナノ領域までをもカバーできるようになりつつあることと相まって、材料系CCSが実用に手が届くところまで来たのである。いわば現実と計算の両方が歩み寄ったことで、真の実用が近づいた。
ただ、公共のスパコンを利用するためには研究課題が採択される必要があり、いつでも手軽に使うというわけにはいかない。今回のトップ500では、日本のスパコンが30台ランクインしているが、そのうち13台は民間企業が導入したマシンだとみられている。今後は民間でのスパコン導入の拡大も期待されるが、やはり当面はPCクラスターなどの手ごろなシステムでのHPCが、民間ではまだまだ主流を占めるはずだ。
そうしたなかで注目されるのがGPU(グラフィックプロセッサー)の超並列性を利用した“GPUコンピューティング”である。普通のパソコンに装着するグラフィックカードよりも若干高級なカードあるいはユニットが必要になるが、価格対効果は非常に高いといわれる。GPUメーカーの米エヌビディアが“CUDA”の名称でアプリケーション開発のためのライブラリーなどを提供しており、とくに日本での注目度が高い。これは、東工大の「TSUBAME」がGPU型スパコンであることが影響しているとみられる。身近にGPUコンピューティングの成功例があるため、関心の高い技術者・開発者が多いというわけだ。
国内では、菱化システムが名古屋大学の粉末X線構造解析システムを「Crystal Profiler」として商品化するに当たり、計算負荷の高い解析部分をCUDAでコーディングした実績がある。また、クロスアビリティがフリーの分子軌道法ソフト「GAMESS」の一部をCUDAに対応させるアドオンソフトを製品化している。
海外でも、CUDA対応を進める事例が多くなり、主要なCCSベンダーの大半の製品計画にそれが含まれているほど。商用ソフトでは、カリフォルニア大学の分子動力学法ソフト「AMBER」が、米オープンアイの化合物スクリーニングソフト「FastROCS」などがすでに提供中だ。さらに、米ガウシアンの量子化学ソフト「Gaussian」もエヌビディアが協力してCUDA対応が進められている。
CUDAによる高速化の効果は、平均して数十倍から100倍程度といわれるが、「FastROCS」は4個のGPUで1,000倍を達成している。いまのところ、高速化率の記録になっているということだ。
エヌビディアは、11月に新技術“Maximus”を発表した。これは画像処理用のGPUと計算・解析用のGPUを動的に制御する技術で、HPなどのハードベンダーから専用ワークステーションも発売されている。対応アプリケーションも用意され、ターンキー型のシステムとしてすぐに利用できることが特徴。現時点では、工業デザインなどのパッケージソフトが中心で、CCSで対応するソフトはないが、今後が期待される。