2020年夏CCS特集:総論 市場動向
デジタル時代のラボ環境実現へ、2019年度市場規模481億円/7.3%増
2020.07.15−コンピューターケミストリーシステム(CCS)は、医薬・農薬や化学・材料研究を支援するシステムとして、自然科学研究の第3の柱といわれる計算科学や情報学の発展とともに広く普及した。近年、第4の科学としての“データ”が注目を集めており、そのデータに結びつく、あるいは取り扱う基盤として、新たな角度からCCSの機能性への評価が高まってきている。それと同時に、人工知能(AI)や機械学習といった新しいテクノロジーも発達してきており、CCSの利活用はデジタル時代のラボ環境実現へ向け、新たな段階に進みつつある。
◇ ◇ ◇
◆◆システム更新でELN伸長、データ基盤化が進展◆◆
CCSは、物質・材料に関する研究を支援する目的で開発されたITソリューションで、計算化学に基づくモデリング&シミュレーション、研究情報を管理するケムインフォマティクス/電子実験ノート(ELN)、生命情報を解析するバイオインフォマティクス、特許や科学技術文献などを調査するためのデータベース(DB)サービスなど、さまざまなシステムが利用されている。
こうしたCCS関連の各種ソリューションを開発・販売している国内主要ベンダーの売り上げの推移をもとにした2019年度の市場規模は、CCSnewsの調べで約481億円。前年度に対して7.3%成長したとみられる。グラフからわかるように、ここ数年のうちでも成長率が高い1年であり、とくにELNの伸びが大きかったと考えられる。
ELNは、2010年前後から国内で急速に導入が進んだが、当初は製薬企業の化学合成部門で使われていた紙の実験ノートを電子化するのが目的で、主に知財戦略上の観点が重視された。化合物が合成・発見された時期を明確化することにより、特許係争が生じた際の証拠として扱われた。また、製薬企業では1980年代から1990年代にかけて、社内で合成した化合物を構造式ベースで登録・管理するシステムが構築されてきており、それらとの接続・統合を図ることもELNの大きな要素だった。
最近のELN需要の多くは、これらのシステムが何回目かの更新期に入っていることが関係している。ただ、背景として重要なことは創薬モダリティが多様化していること。医薬品はかつては低分子化合物が大半を占めていたが、1990年代以降に抗体医薬などが台頭、さらに近年では核酸医薬や細胞医薬、再生医療の研究開発も活発化し、モダリティの選択の幅が広がっている。この結果、低分子を中心に構築してきたシステムが研究の実態と合わなくなってきており、新しい要件を満たすシステムへの再構築が必要になったというわけだ。
そこで、ELNでは、生物系の実験記録・データへの対応、また新薬申請を見据えて幅広い研究開発ステージを貫くCMC(化学、製造、品質管理)でも注目度が高くなってきている。これは、ELNが研究開発にかかわるあらゆるデータのプラットフォームともなるためで、米食品医薬品局(FDA)や欧州医薬品庁(EMA)が求めているデータインテグリティにも有効だといわれている。データインテグリティは、データが完全で一貫性があり、正確であることを意味しており、創薬研究段階から、非臨床、臨床、申請、製造販売後、ファーマコビジランスを含めた“医薬品のライフサイクル”で生成されるすべてのデータが対象になる。実験の生データや原資料だけでなく、誰がいつどのようにデータを生み出したのか、権限設定や業務SOPなどの組織プロセス情報を記録したメタデータ、さらに医薬品関連文書・データなど、エビデンスとなるすべてのデータが関係してくる。最近のELNは、さまざまなタイプのデータをまとめて扱えるように機能が拡張されており、外部のシステムとの接続性や連携性が考慮されている場合も多くなっている。
ELN普及に弾みがついているもう一つの要素が、非製薬業におけるマテリアルズ・インフォマティクス(MI)への関心の高まりだ。材料開発に関係した実験データ、計測データを集め、それらを機械学習にかけることによって、材料の構造や組成と機能・物性との相関関係を探り、望ましい性質を持つ材料を狙い撃ちで設計しようというもの。ただ、材料研究の場合は、研究データが属人化していたり散逸していたりすることが多く、創薬研究のようにデータを蓄積整理しようという意識が希薄だったこともあって、機械学習にかけるデータを準備するのに苦労するケースが目立っている。
このため、MI研究のためのデータ整備の目的でELNが利用されている。いろいろな実験・測定器からのデータ取り込みも試みられており、機械学習に向けてのデータ前処理を行うワークフローが組み込まれることも増えている。とくに、クラウド型のELNは初期投資が小さくてすみ、すぐに利用が開始できるため、非製薬業での導入が活発化している。
MI分野は、機械学習を行う上でデータの絶対量が少ないことが問題だとされるが、これは計算化学による解決が図られつつある。材料の分子構造や結晶構造をもとにシミュレーションで何らかの物性値を計算し、その値を機械学習用のデータとして利用する。計算は、実験よりも均質なデータが得られるため、むしろ有用性が高いとも考えられている。このことから、材料シミュレーションを行うモデリング&シミュレーションソフトも、昨年度は好調な伸びを示した。
MI用のパッケージソフトを商品として販売するベンダーはまだないため、ユーザーはELNやモデリングソフトを使用して研究環境を整えつつ、機械学習やAI構築については自分たちで進めなければならない。ただ、そうした業務をコンサルティング的に支援するAIベンダーはいくつか登場してきており、最近は材料メーカーがそれらと個別に契約を結ぶ例も多くなっている。今回まとめた市場規模推定には、こうした業態はカウントしていないので、全体の成長率はさらに大きくなったとも考えられる。
◇ ◇ ◇
◆◆新型コロナの影響じわり、新規顧客開拓にダメージ◆◆
昨年度は好調だったCCS市場だが、新型コロナ感染拡大の影響が長引くなか、今年については懸念材料も多い。創薬モダリティにともなうELNの再構築や、MI研究の活性化などのトレンドは今年も継続していると考えられ、いまのところ経営に大きな影響の出ているCCSベンダーはないが、各社とも不安要素を口にする。
まず、コロナ下でも幸いに大きな問題になっていないのが既存ユーザーへのサポートだ。メールや電話でのやり取りが普通になっていたため、いままでととくに変わることはないという。また、ウェブ会議などでのやり取りも、緊急事態宣言が出たばかりのころは、外部から接続できない顧客があるなどの事例もあったが、リモートワークが定着するにつれ、そうした問題もなくなってきている。ソフトウエアのトレーニングについては対面で行うことが通例であり、当初は「双方向のやり取りがうまくいかない」「顧客側の画面がわからない」などのトラブルがあったものの、最近は顧客側もベンダー側も慣れ、リモートでトレーニングができていると話すベンダーがほとんどである。
政府の緊急事態宣言で、民間企業の研究所も出社できなくなったところが多く、大学関係もほとんどが構内への立ち入りを禁止された。そのため、自宅からでもできる計算への需要が拡大。ベンダー各社は特別なライセンスを用意してこのニーズに対応した。
しかし、顧客に直接訪問できないことの弊害はいろいろなかたちであらわれている。訪問を自粛するように要請され、納品ができなくなっているというベンダーや、対面ができないために打ち合わせが進まず、商談が遅延したり発注が保留になったりしているというベンダーがある。また、日本化学会や日本薬学会など春シーズンの学会が軒並み中止になったため、今後の新規顧客開拓で大きな影響が出てくるとみるベンダーが多い。CCSベンダーにとって、学会や研究会での露出は重要なプロモーションの場となっており、「会場での既存顧客との接触や新規顧客へのマーケティングの機会が喪失した」「宣伝やコミュニケーションの場がなくなった」「新製品や新ソリューションを訴求する機会を逸した」などの声があがっている。
今年の秋の学会もほとんどがウェブ開催のかたちをとっている。多くのベンダーは例年通り出展すると考えられるが、その成果には不安感もあるだろう。すでにある学会にリモート出展したベンダーは、仮想会場でセミナーを実施したが、「(テレビのチャンネルを変えるように)聴講者の出入りが激しく、モチベーションの維持がたいへんだった」と感想をコメントしている。いずれにしても、今年は否応なくリモートに対応しなければならないわけで、本番までによく企画を練ることが重要になるだろう。
そのほか、ベンダーがそれぞれ開催する製品紹介などのセミナーやユーザーフォーラムも重要なプロモーションの手段となっている。これらは、今年はほぼ中止、あるいはウェブ開催に変更された。リモートで行う場合はウェビナーと変わらないため、開催自体に問題はない。リモートの利点を生かして同時通訳を入れ、日本で行うフォーラムのプログラムを韓国や中国のユーザーにも同時配信しようと計画しているベンダーもある。計算化学を中心にCCSユーザーはアジアにも広がってきているため、これは優れたアイデアだといえるだろう。
さて、今回の新型コロナウイルス感染拡大が、CCS事業の売り上げなどに及ぼす影響については、収束の見通しが立っていない現時点で予想することは難しい。ただ、新規顧客に対する営業活動が制限されるなかで、少なからぬ影響が出ると予測するベンダーは多い。「東日本大震災の時よりも影響は大きいと考えており、3割、4割減もあり得る」「設備投資を削減する企業が出てきて、20%マイナスを見込んでいる」「MIなどの投資を積極的に進めていた企業でも、今回の件でネットワークのインフラ強化等にIT予算をシフトする動きが出ると考えられる。想定は難しいが2〜3割ダウンもあり得る」「顧客の業績が落ち込めば受注数や規模は減少する。楽観的にみて3割減、下手をすると半減もあると考えている」「すべての製造業の業績が落ちているので、研究開発投資が減ることは間違いない。初めての事態であるため影響の規模を見通すことは困難」などの声が出ている。こうした不安が杞憂に終わることを祈りたい。
一方、リモートワークに適した研究環境を用意することで、難局を乗り越えようとするベンダーも出てくると思われる。ELNはクラウドベースが多くなってきており、計算化学もクラウドを介してスーパーコンピューター資源を利用するケースはめずらしくないため、リモートで研究を行う環境は整いつつあるといえるだろう。数年前から、海外ベンダーは遠隔地にいる研究グループ間で分子モデルを共有したり、関連データを示し合いながらディスカッションしたりするウェブコラボレーションツールを製品化してきている。今回もこうしたシステムへの問い合わせが増えているという。リモートで、測定データをELNに自動的に流し込んだり、産業ロボットを利用して実験自体を遠隔地から無人で行ったりする取り組みも実施されている。このようなラボのデジタル化も、製薬・化学産業におけるデジタルトランスフォーメーション(DX)の取り組みの一環になると注目される。